AIRDO FDA 八重洲出版 やまだいち 青島文化教材社
AIC航空写真館
航空ファンの世界 トップページへ AIC航空写真館 トップページ 航空ファンの世界 トップページへ ピックアップ写真館 航空ファンの世界 トップページへ

Vol.11 : フレンドシップ F-27〔Part.1〕ANA創成期の主役

メニュー
 ●初号機、原型機、プロトタイプのご紹介 ●ピックアップ写真館 
 ●1960年代 ●1970年代 ●1980年代 ●1990年代 ●2000年代 ●2010年代
 
※各写真をクリックすると拡大します。
ピックアップ写真館
平成29年08月17日掲載

Vol.11 : フレンドシップ F-27〔Part.1〕ANA創成期の主役 ❖


全日空は、DC-3に代わる、ローカル線用の主力機として1961年から1972年(S47年度末)まで、計25機のフレンドシップを使用した世界最大のフレンドシップユーザーでした。その後はYS-11が引き継ぎましたが、YS-11と比べても乗客数最大44席と多少小型ですが、性能的には巡航速度、航続距離とも上回っており、そのスマートさからも好きな機体でした。私が乗った機会は一度だけで客室からの大きな窓が印象に残っていますが、YS-11では実現しなかった発展型(F-50等)の開発、米国でのライセンス生産(FH227等)もあり、Part 2で紹介しますが、同クラス機で最も長く生産された機体(計786機)でした。

文・写真 : 鈴木 宣勝
 
フォッカー F27-200 cn10179 P2-MNE (JA8603) エア・ニューギニー
〔1972年12月 伊丹空港〕
ピックアップ写真館
 

全日空の第一次発注機分(JA8601~JA8603の3機)の機体で、1961年6月 初号機JA8601と供に羽田へ到着。71年頃から順次引退を開始したフレンドシップは、1973.3.31付けで、全機路線から撤退しましたが、この機体は、売却先のAIR NIUGINI(PAPUA NEW GUINEA NATIONAL AIRLINE)への整備、機体塗装が終わり、フェリー直前の様子です。なお、全日空が使用したフレンドシップ25機全機は、このように売却先向けの整備(他にフランス、インドネシア、オーストラリア等のエアライン)後フェリーされ、他のエアラインで活躍し、そのすべてが第二の人生を送りました。

 
フォッカー F-27-200 c/n10117 JA8601 ANA
〔1966年 伊丹空港〕
フォッカー F-27-200 c/n10228 JA8617
ANA〔970年 羽田空港〕
ピックアップ写真館 ピックアップ写真館

全日空が購入したフレンドシップの初号機で、売却先はインドネシアのべリタエア(PK-PFW)です。

1963年受領、1973年フランスのTAT(F-BUFU)へ売却された。この機体は1966年鹿児島空港でオーバーラン事故(クルーのみのフェリー時)を起こした経緯があるが、ANAによる修理後、売却時まで飛行している。フレンドシップによる唯一の事故らしい事故であったが、乗客搭乗時の事故は皆無であった。

 

フォッカー F-27-200 c/n10203 JA8608(天馬)藤田航空
〔1963年 羽田空港〕

フォッカーF-27-200 c/n10203 JA8608 ANA
〔1968年 羽田空港〕
ピックアップ写真館 ピックアップ写真館

1962年7月 藤田航空が受領、羽田―八丈島路線に使用していたが、1963年11月全日空に吸収合併され、その後は機体塗装もANAとなっている。

元藤田航空ですが、その後ANA機となり、最後の売却先は、1971年インドネシアのペリタエア(PK-PFU)です。なおフレンドシップの前方ドアは荷物室用で、このような使用法であり、ドア後方に70年万博キャンペーンマークが入っている。

 
フォッカー F-27-200 c/n10261 P2-BNF(JA8636)
エア・ニューギニー〔1974年11月 伊丹空港〕
フォッカー F-27-200 c/n10263 JA8638 ANA
〔1970年9月 厚木飛行場〕
ピックアップ写真館 ピックアップ写真館

1964年ANAが受領、1974年ANAに最後に残っていた機体でした。 ANA JA8636としての最後の飛行は、当サイト年第別1970年代で紹介していますが、1974年11月29日で売却のためJA登録抹消、翌日パプアニューギニー籍で伊丹からフェリーされる時の様子です。この時を持って、全日空が使用していた全25機のF-27-200が日本からなくなりました。

全日空が購入したフレンドシップの最終号機で1964年12月納入、売却は1972年5月アイスランド(TF-FIM)へ売却。なお、写真は1970年大阪万博が開かれた年、羽田空港のトラフィックが満杯となり、減便と同時に大島、秋田路線等が一時的に厚木飛行場発着となった時のものです。

 
PAGE TOP ▲