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AIC航空写真館


ピックアップ写真館 Vol.30 : 国産小型機〔その1〕

2021/09/17 ピックアップ写真館

現在、国産ジェット旅客機スペースジェット(旧MRJ )等、国産機の話題は尽きませんが、この原点は、戦後航空再開( GHQによる「航空活動禁止令」が1952年に解除された )した以降、多くの小型機等が生産されたことから始まりました。1機のみの試作で終わったものから、ライセンス生産機等、現在の日本の航空工業界の基礎を作ったものとも言えるものなので、それらの一部を紹介します。

東洋航空工業製 フレッチャー FD-25Bディフェンダー〔1963年 都立航空高専 〕

Fretcher FD-25 Defnderは、米国フレッチャー 社が開発した軽攻撃機(COIN機)で、単座機(FD-25B)を2機、複座機(FD-25A)を1機試作し1951年初飛行しました。軍からの発注が得られなかったことで、1952年フレッチャー社は日本の東洋航空工業にライセンス及び製造権を売却、日本で製造した機体は1953年3月に初飛行、54年8月までに約12機が製造された経緯があります。製造された機体は、A型B型、併せて7機をカンボジア空軍、4機をベトナム空軍、1機をタイ空軍に輸出しただけで、日本国内で飛ぶことは殆ど有りませんでした。1961年になり、当時の都立航空高専が学校の教材用にA型及びB型を買い取りました。写真の機体はJA3092(製造番号2)として1954年から1961年まで登録され、藤沢飛行場で保管されていた機体で、その後は、学校でエンジンの試運転等に使用されていたことで、非常に程度が良い状態でした。現在でも、その後新設された科学技術展示館で保存されているようです。なお、米国ではFretcher製FD-25B 1機 ( c/n3 )が、N240FD( 前N91316)として登録され、Experimentalですが、現在でも飛行可能な状態で残っています。

東洋航空工業製 フレッチャー FD-25Aディフェンダー〔1965年 都立航空高専〕

FD-25A 複座型は、Fretcher製の2号機が米国でのテスト飛行中に墜落(パイロット及びエンジニア死亡)したため貴重な機体であり、同じく科学技術展示館で見ることができます。

日本大学 N-58 製造番号1 JA3133 日本大学〔1963年 調布飛行場〕

日大木村秀政研究室で設計し、伊藤忠航空整備で1960年1機のみ製造した機体で、既存機(パイパートライペーサー等)からのパーツ流用等で問題を少なくし、日大の学生訓練等に1971年ごろまで使用されていました。その後河口湖自動車博物館等、現在は青森五戸町歴史未来パーク(木村秀政ホール)で展示されています。

伊藤忠N-62 製造番号001 JA3216 日本大学〔1970年頃 調布飛行場〕

1964年初飛行、日大と伊藤忠航空整備が共同開発FAAの型式証明も取得し、当時普及を始めていた、セスナ172の同クラスでSTOL性能等を意図したものであったが、生産は6機のみで終わりました。なお、この生産1号機は、各種試験に使用された後、日大の学生訓練等で1972年ごろまで使用されていました。

富士 LM-1 製造番号LM1-1 JA3098〔1967年頃 羽田空港〕

富士重工は1953年航空再開直後から、多数のT-34メンターを、ライセンス生産しました。メンターをベースに陸上自衛隊向け4~5席の連絡機として、このLM-1を開発、総計27機が製造されました。なお、この1号機は富士での開発試験後、個人機となり、1970年頃ま使用されました。また、陸自向けLM-1は、米軍供与の形式を取っていたことで、リタイアー後、何機かが米国へ渡り、その後米国で飛行している機体があります。

三菱MU-2A c/n MU-2-003 JA8626 三菱重工業〔1965年 名古屋空港〕

MU-2シリーズで、殆ど量産されることのなかったMU-2A型で、三菱でデモ等に使用、この後、札幌の伊藤組に引渡され1975年頃まで飛行していました。なお、この機体は最近オープンされた名古屋空港航空館 boon(豊山町)に展示されています。

富士重工700型 製造番号30001 JQ5001 富士重工業〔1975年頃 木更津上空〕

富士重工モデル700(FA-300)の1号機で、この機体は、その後1977年にJA5258として登録、1988年頃まで社有機として飛行していました。現在は、成田航空科学博物館で展示されている機体です。FA-300は1975年に初飛行、米国のロックウェル社と提携、富士ロックウェゥルFA-300として量産されましたが、当時オイルショックの影響を受け、45機の生産で終了しました。富士は新工場を新設して機体の量産を開始し、艤装作業はロックウェゥル社で行うことでしたが、国内での販売実績はありませんでした。

川崎ベル47G-2 製造番号101 JA7028 東北電力ちょうかい〔1960年頃 福島県〕

川崎製47G-2型の製造1号機です。戦後日本でヘリコプターが普及したきっかけを作った47G-2型で、川崎は製造番号101から280までの182機を生産しています。主な使用先は、次のc/n101~c/n107がビルマ空軍向けで輸出が15機、陸上自衛隊向けのH-13Hとして75機、民間向けは84機等でした。

Bell 204B-1 3001 JA9009 富士重工〔1969年 宇都宮飛行場〕

富士ベル204Bの国産化1号機として扱われることの多い機体ですが、製造番号上からも型式はBell 204B-1で、富士重工が1962年に社有機1号機として購入し登録、その後のフジベル204Bの開発(204B-2、製造番号はCH1~ )、各種試験等で1980年頃まで使用した機体です。特記すべきことでは、1972年頃 有翼ヘリコプターXMHとして改造し試験をしていたことです。

三菱MH2000 sn1001 JQ6003 三菱重工〔1997年 名古屋空港〕

三菱重工が開発した純国産の中型ヘリコプターで、独自のローターシステム、トランスミッション、国産のエンジン等で、低騒音、低振動、安全性等を目指し、1994年初飛行した機体です。1997年に型式証明を取得、1999年からは量産機も引き渡され、順調と思われましたが、2000年11月、この試作初号機(JQ6003 )が、試験飛行中に三重県で墜落、パイロットが死亡事故を起こしたことで、その後は販売が低迷、結果的には、量産中の機体も製造中止し、行き渡し済みであった数機も、最後の機体が2013年には登録抹消、現在では、試作機を含め、飛行可能な機体は存在していません。このMH2000が製造中止及び運用停止に至ったきっかけである、JQ6003機が墜落事故に至った原因等は、航空事故調査報告書2003-5で公表されているので確認することができます。