Vol 46:YS-11の誕生 その1( 試作機 JA8611、JA8612 )
2023/04/05 ピックアップ写真館コロナが落ち着きつつあり、国立科学博物館所有のYS-11量産初号機の展示も予定されていることから、参考に、改めて初期のYS-11誕生時のころの写真を順に公開します。
なお、後継機として話題になっていたMRJ機(三菱スペースジェット)の開発が思わしくないことからも、YS-11の歴史を振り返ることは重要で、参考になればと思います。
YS-11は、当初の量産計画150機を上廻る182機が製造され、輸出も72機と国内使用の民間機より多数(他、官庁向け)だったこともあり、失敗作と言われながらも戦後の民間機製造経験が全く無い時代で、輸出に必要なFAAの型式証明も取得しました。
FAAが行う外国機の型式証明には、設計及び製造過程の審査に加え、FAAパイロットが行う飛行試験が重要な要素を占めていますが、YS-11の場合では、すべて日本国内で実施されました。
三菱製のMRJ(スペースジェット)機の開発と比較して特記すべき点、YS-11型の設計開発(他に品質管理、販売、サポート等)は、当時の日本での主要な航空機メーカーである三菱、川崎、富士重工(旧中島飛行機)等が参加した日本航空機製造社(日航製NAMC、政府が3/5出資)であったことで、その後の製造分担では、三菱重工は最終組み立て工程の担当メーカーで、全体の54%の分担でした。
YS-11の試作1号機(JA8611)の初飛行は1962年8月30日で、多数のメディアが招待され実況生中継があったこと、その年の12月18日には羽田空港で皇太子殿下を招き完成披露式典が行われこと等で、国を挙げての大々的なイベントとも言えるものでした。
1962年12月からは試作2号機(JA8612)も参加し、本格的な飛行試験が始まりましたが、飛行特性、操縦性の問題が判明し、その時点では、納入の遅れが予想されたことで失敗作とも言われた由縁でした。
ANAは1号機の初飛行直後に20機を仮発注したことで量産が開始されましたが、このことから、競合機でもあったフォッカーF-27 フレンドシップを追加発注し、1964年には25機も所有する。当時フレンドシップ機での世界最大のユーザーともなりました。
YS-11は1965年以降に納入が始まりましたが、F-27は1973年頃までに全機を路線から引退させ国外へ売却されたこと、その後は、全機が海外エアライン等で使用されました。
この直後に完成した2号機(JA8612)と共に本格的な飛行試験が開始されましたが、当初のフライトから操縦性の悪さ(三舵問題)が課題となり、特に横安定の改善には主要構造部である主翼上半角を2°増加させる必要があること、他にもエンジンナセルの形状から来る振動等、根本的な大改修が必要となる等、多くの重要な問題が出ました。
社内飛行での確認の見通し後、型式証明の申請を受けていた航空局及びFAAパイロット検査官による飛行試験が開始されましたが、日本では戦前を含め過去に経験のなかった米国の基準によるものであり、FAAパイロットによる多くの飛行試験での指摘は無視できないものでした。
結果、1年以上後の1963年末11月から12月かけて大規模な改修作業が行われ、主翼付け部にシムを挿入し上半角を2°アップ、補助翼部の延長、エンジンナセル周りの整形(通称三味線バチ)等を行い、翌年からのFAAの再試験に臨みました。
その後の試験は順調で、最後に、FAA要件によるT類旅客機として必要となるエンジン一発停止での離陸もクリアしました。
その結果日本での型式証明は、その年1964年8月に発行され、9月に東京オリンピックの「聖火輸送特別機」として、沖縄以降の国内ルートで、ANAが型式証明を取得したばかりの試作2号機JA8612をチャーターして国内輸送、この国産機による成果を上げることができました。
FAAの型式証明(A1PC)も1965年9月7日付けで発行され、その後の改良型YS-11A-200型に対しても1968年4月3日に発行され、輸出に対しての問題はなくなりました。
個人的に私自身、YS-11との縁は深く、1963年4月東京の大学に進学し製図の実習がありましたが、課題が当時のYS-11の三面図で製図板と苦闘したことが最初に思い出されます。
1964年3月春休みで名古屋空港に行った際、空港の端の三菱重工の工場脇のYS-11を見て、空港の場周道路から当時型式証明取得前の試作1号機JA8611を近くで見ることができ、 飛行場の制限区域外だったので、黒い学生服姿で航空学科を勉強中の学生と説明すれば問題ないと思っていて、今思えばおおらかな時代でした。
1966年学校を卒業し、当初は羽田空港勤務でしたが、1966年11月、大阪へ行くことを上司に話した際、便があるかもしれないと上司が翌週の伊丹空港でのフライトチェック予定を確認、当該機長の了解をとっていただき、最新のYS-11型量産1号機であるJA8610の充分あるスペアシートで同乗することができました。その後の検査官として30数年間、この機体を含めた多くのYS-11に対する検査及び飛行の機会がありましたが、私にとっては初めて乗った飛行機でもあり忘れられない機体でした。
YS-11での経緯をまとめるにあたって、現在との相違、後継機でもある三菱MRJ(スペースジェット)の型式証明取得の問題点が避けて通れません。私自身が経験してきたことからも、日本での社会体制も絡んだ問題にもなりますが、別サイト、スズキエアワールド(YS-11の誕生 その後)でも整理していますので、それらも参考にしてください。
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以降の①②③は1964年3月名古屋空港で撮影した試作1号機で、1962年8月に初飛行。試験飛行の結果であった上反角変更等の改修を前年末までに終了し、この最終形態で型式証明が行われました。
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この試作1号機による試験飛行は、主に飛行特性、飛行性能等に関するもので、そのため機首に計測用のピトー管を装備していたことが外観上の特徴でした。
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型式証明は、この年8月25日付けで交付されており、飛行試験がピークだった時期とも思われますが、飛べない天候でも行える地上試験等(最大トーイング角等)は可能でした。
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1964年8月、型式証明交付直前の名古屋空港ビルからの撮影です。手前の機体はYS-11型の主脚と構造が同じと話題になっていたコンベア440(ANA)です。
JA8611
型式証明取得以降は、APU装備の社内試験等に使用され、1971年頃の名古屋空港での撮影です。
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1964年9月羽田空港での試作2号機オリンピック聖火空輸特別機です。1964年9月、東京オリンピックの聖火空輸が始まり、沖縄以降の国内分を担当したANAが、前月に国内の型式証明を取得したばかりのこの試作2号機を短期間チャーターし、ANA塗装、機首にオリンピックマーク、後部胴体に聖火空輸特別機と記入、沖縄-鹿児島-千歳間の聖火輸送を行いました。
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聖火空輸直後の1964年10月10日オリンピック開会式当日の撮影で、NAMC塗装に戻り、人員輸送を行った試作2号機、羽田空港での撮影です。量産型での標準装備であった自動タラップは装備されていません。
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オリンピック当日の10月10日です。
JA8612
この試作2号機は、型式証明試験ではエアラン機としての運航試験等に主 に使用されていたため、型式証明を取得した以降では、短い期間ですがJDA、Filipinas Orient、TAW等に短期リースされ旅客輸送に使用されていました。 写真は、1970年末頃で名古屋空港リースバックされた後の日航製(NAMC)塗装です。
YS-11 #02号機(参考)
YS-11の疲労試験用に製作した02号機で、すべての試験が終了後、羽田空港のターミナルビル屋上で展示されていた機体です。1965年から1975年頃まで展示され、有料で機内見学もできました。当初はこのJA8611飛行試験機と同じ塗装でしたが、その後は東亜国内航空(TDA しれとこ)塗装で展示されました。