ボーイング 727-22 18295/4 N68050 全日空(1965年 羽田空港)
2025/08/25 1960年代
全日空が 1964 年 4 月からの 1 年間、ボーイングからの短期リースで国内線初のジェット便に使用した機体です。ボーイング社のデモ機(N7003U)としても使用されていた、727 の製造 4 号機でしたが、ANA が返却後、1967 年からピードモント航空で使用されていました。事故絡みですが、ANA は 1965 年から自社の 727 を導入、その 2 号機、JA8302 が 1966年 2 月、羽田へのアプローチ中に東京湾へ墜落、搭乗者 133 人全員が死亡で、当時の世界最大の航空事故でした。
事故調査には、当時の航空界の面々で、木村秀政を団長とする 15 名の事故調査団が結成されましたが、当該機には FDR も CVR も無く、メンバーには、各種自説の主張も多くあり、最終事故報告書は 4 年後 1970 年 9 月に第 5 次案の後、公表されました。結論としては、夜間、羽田への進入中、低高度から接水するに至った事由は不明であるとされたことで、その後の日本での事故調査の扱いに大きな影響を与えた結論でした。
決めてとなる FDR,CVR もなかったことで、メンバーの山名正夫氏が最終報告書前に調査団を辞め、自説の主張「最後の 30 秒」(羽田沖全日機墜落事故の調査と研究、1972 年出版)を出版したこと、その後、評論家の柳田邦男氏が当該東京湾事故も含めた航空機事故「マッハの恐怖」を出版し改訂版も出されていますが、木村秀政氏の国会答弁は非科学的調査だったと記述、他にも、一部の航空エンジニア等から、山名正夫氏が最後まで自説を曲げずに貫き通したことを賞賛するとの意見もあります。調査団の結論に対し対立した 2 名の考え方等、今後も課題と考えられますが、前提として、全日空 が経験した事故調査での FDR,CVR 装備の重要性で、ANA 機の事故以前に米国内で経験された 727 機の 3 件の事故調査では全て FDR が装備されていたこと、また、前記の N68050 機が 1967 年 7 月 Piedmont Airlines Fligt 22 の空中衝突事故で墜落した際の事故調査でも、CVR と,FDR が有効に活用されていた事実がありました。
その後、ANA が 1971 年以降導入した新型の 727-200 型で、導入直後の 2 号機 JA8329が雫石上空での自衛隊機との空中衝突事故を経験し、ANA は事故調査での経験を生かせず、CVR は装備されていませんでした。日本では航空法上の装備義務が設定されていなかったからとのことですが、米国でも同様であり、違いは新型機を新たに導入する場合等、法律だけでのカバーは期待でず、自社での経験等が重要であるとの米国等の考え方との差があります。